奇跡の出会い

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春の風が街を優しく撫でる午後、僕はいつものように大学の図書館へ向かっていた。特に目的があったわけではない。ただ、なんとなく落ち着ける場所がそこだった。講義が早めに終わった日、僕は決まってあの静かな図書館へ足を運んでいた。

重たい扉を開けると、少しひんやりとした空気が頬をなでた。中は思っていたよりも混んでいて、いつもの窓際の席には誰かが座っていた。仕方なく、今日は少し奥の棚近くにある席に腰を下ろした。雑誌の特集記事をパラパラとめくりながら、僕は気づけば外の風景に目を奪われていた。

桜が舞っていた。

まるで映画のワンシーンのようだった。ゆっくりと、でも確かに、花びらが舞い落ちていく。その儚さに胸が締めつけられるような気持ちになった瞬間だった。

「すみません、ここ、空いてますか?」

ふいに声をかけられて顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。黒髪を肩の上で揺らし、ベージュのトレンチコートを羽織っている。手には分厚い本を数冊抱えていて、少し困ったような顔をしていた。

「あ、はい。どうぞ。」

慌てて荷物を引き寄せると、彼女はふっと笑って「ありがとうございます」と言って席に座った。その笑顔はどこか懐かしさを感じさせるものだった。もしかして、前にもどこかで会ったことがあるのだろうか。そんな感覚が頭をよぎったが、思い出せなかった。

彼女は静かに本を開き、ページをめくっていた。隣にいるだけなのに、空気が柔らかくなるような、不思議な感覚だった。僕は時折、視線を彼女の横顔に向けてしまっていた。気づかれないように、そっと。

それから数十分が経った頃、彼女がふいに口を開いた。

「ここの図書館、静かで落ち着きますね。」

思いがけず話しかけられた僕は、少し動揺しながらも頷いた。

「そうですね。僕も、ここが一番好きです。」

「そうなんですか。今日、初めて来たんです。いつもは駅前の図書館に行ってたんですけど、なんとなく歩いてたらたどり着いちゃって。」

偶然だった。いや、偶然というには、あまりにも出来すぎている。彼女がふとした気まぐれでこの図書館に足を運び、僕の隣の席が空いていた。数分でも早く席に着いていれば、話すこともなかったかもしれない。

「名前、聞いてもいいですか?」

自分でも驚くほど自然に、言葉が出ていた。彼女は一瞬目を見開いて、それからまた、あの優しい笑顔を浮かべた。

「藤宮(ふじみや)です。藤宮彩夏(あやか)。」

「僕は、遠野悠真(とおのゆうま)です。」

それが、僕たちの出会いだった。

翌週、僕たちは再び図書館で再会した。約束をしていたわけではない。ただ、同じ時間、同じ場所に、それぞれの意思で来ていた。

「また会いましたね。」

「運命ですかね。」

少し冗談っぽく言ったつもりだったのに、彼女は頷いて「そうかもしれませんね」と言った。そんな返しをされるなんて思っていなくて、僕は一瞬、言葉を失った。

それから僕たちは、図書館でたびたび会うようになった。最初は挨拶だけだったのが、やがて読んだ本の話をするようになり、どちらからともなく一緒にお昼を食べるようになった。

彼女は文学部で、今は卒論の準備中だと言っていた。テーマは「記憶と再生」。なんだか難しそうだなと思ったけれど、彼女がそれについて話すときの表情がとても生き生きしていて、僕はつい、引き込まれてしまった。

ある日、僕は勇気を出して彼女を誘った。

「今度、図書館じゃなくて、どこか外で会いませんか?」

彼女は少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに笑って「いいですよ」と言ってくれた。

そして、初めてのデートは、近くの小さな美術館だった。春の展示で、桜をテーマにした絵画が並んでいた。彼女は一枚の絵の前で立ち止まり、しばらくじっと眺めていた。

「ねえ、悠真さん。」

「うん?」

「もし、こうして偶然じゃなくて、必然だったら……奇跡って、信じますか?」

不意にそんなことを言われて、僕は一瞬言葉を探した。でも、答えは決まっていた。

「うん。信じるよ。」

僕は彼女と出会ったこの時間を、奇跡だと思っていた。だからこそ、失いたくなかった。もっと彼女を知りたい、もっと一緒にいたい、そう強く願っていた。

彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。

その日の帰り道、彼女は少し遠回りをして帰ると言った。理由は聞かなかったけれど、僕はただ、見送った。後ろ姿が風に揺れて、あの日見た桜のように儚かった。

そのときの僕はまだ知らなかった。

この出会いが、どれほど大きな意味を持っていたのかを。

それから僕たちは、春から初夏にかけて、少しずつ距離を縮めていった。

図書館、美術館、カフェ、公園。誰かに紹介するわけでもなく、ただふたりだけの時間を積み重ねていった。

何か特別な言葉があったわけじゃない。でも、一緒にいると自然と心が穏やかになった。

彼女の何気ないしぐさ、話し方、笑顔。ひとつひとつが、僕の中に深く刻まれていった。

そんなある日、彼女から珍しく電話がかかってきた。

「悠真さん、明日、時間ありますか? ちょっと、話したいことがあって。」

その声はいつもと少し違っていた。明るさの奥に、何かを隠しているような、そんな感じがした。

僕はすぐに「あるよ」と答えた。

待ち合わせは、あの図書館の前だった。季節はもう夏の入り口に差しかかり、風は少し湿気を含んでいた。

ベンチに座って待っていると、彼女がゆっくりと歩いてくるのが見えた。

「ごめんね、待たせた?」

「ううん。俺もさっき来たとこ。」

それは嘘だったけど、彼女は微笑んでくれた。

しばらく沈黙が続いた後、彼女は切り出した。

「私、来月、実家に帰ることになったの。」

「……実家?」

「うん。母の具合があまりよくなくて、しばらく看病したいんだ。卒論の資料も持っていくつもりだけど、大学にも、しばらく来れなくなると思う。」

僕は何も言えなかった。頭では理解していても、心が追いつかなかった。

「……どこなの? 実家って。」

「長野。山の方で、電車で3時間くらい。」

遠くはない。でも、近くもない。

いつでも会える距離じゃない。まして、付き合っているわけでもない僕たちの関係にとっては、曖昧な距離だった。

「だからね、ちゃんと伝えておきたかったの。突然いなくなるのは、いやだったから。」

「……ありがとう。話してくれて。」

それが、別れのように思えた。

でも、彼女はふいに僕の方を見て、はっきりとした声で言った。

「悠真さん。私ね、あなたと出会えて、本当によかった。運命とか、奇跡とか、あんまり信じる方じゃなかったんだけど……でも今は、信じてもいいかなって思ってる。」

「……俺も、同じこと思ってた。」

その瞬間、風がふわりと吹いた。夏の匂いがして、遠くで蝉が鳴き始めていた。

彼女は一歩だけ近づいて、そっと僕の手に自分の手を重ねた。

それは、握手とも違う、でもたしかな触れ合いだった。

彼女が長野へ帰ってからの毎日は、どこか薄いフィルムがかかったような感覚だった。

何をしていても、何を食べても、彼女のことを考えていた。

最初はLINEや電話でやり取りをしていたけれど、次第に返信の間隔が空くようになっていった。

「お母さんの容態が少し悪くて、病院にいる時間が長くなってきた」

そんなメッセージが届いたのは、8月の終わりだった。

それからは、僕から送ったメッセージに既読がつくまで数日かかることもあった。

寂しさと不安が重なって、何度も「会いに行ってもいい?」と打ちかけては、結局送らなかった。

彼女の負担になりたくなかった。

でも、本当はただ、怖かったのだ。

彼女との奇跡のような時間が、静かに終わっていく気がして。

9月の初め、大学の講義が再開する頃。

僕は決心して、長野行きの電車に乗った。

駅からバスを乗り継ぎ、彼女が教えてくれた住所を頼りに、ようやく山あいの町にたどり着いた。

彼女の実家は、小さな診療所の隣にあった。

インターホンを押すと、中から彼女のお父さんが出てきた。事情を話すと、彼は驚いたような顔をしたあと、優しくこう言った。

「彩夏は、いま病院に行ってる。連絡は……そうか、来てなかったのか。」

「え?」

「本人も、迷ってたんだと思うよ。連絡するべきか、しないべきか。母親も大事だし、君との時間も大切だって、何度も言ってた。」

胸の奥が締めつけられた。

「もうすぐ戻ってくると思う。よかったら、中で待っててくれないか?」

僕は頷き、玄関の横にある小さな和室で待たせてもらった。壁には、彼女が小さな頃に描いた絵がいくつも飾られていた。どれも、色彩が柔らかくて、彼女らしかった。

ふと、引き戸が開いた。

「……悠真さん?」

彼女が立っていた。少し痩せたように見えたけれど、目はしっかりと僕を見つめていた。

「どうして……来たの?」

「……会いたかったから。」

ただそれだけの言葉だった。でも彼女は、何も言わず、僕に抱きついた。

「ごめんね、ずっと……返事、できなくて。」

「いいよ。来てよかった。こうして会えたから。」

彼女の肩は細くて、小さな震えを感じた。

でも、そのぬくもりは、たしかに生きていた。

東京に戻ってからも、僕たちは遠距離で連絡を取り合い、ゆっくりと、でも確実に、恋人になっていった。

お母さんの看病が落ち着いたら、また東京に戻ってくると言ってくれた。

冬が近づく頃、僕は彼女に手紙を書いた。

「君と出会えたことは、奇跡じゃなくて、きっと必然だったんだと思う。

でも、その奇跡を信じ続けるかどうかは、自分の覚悟次第なんだね。

だから僕は、これからも君といたい。どんな季節が来ても、どんな距離があっても。」

その返事は、数日後に届いた。

そこには、彼女らしい柔らかな文字で、こう書かれていた。

「奇跡ってね、一度だけ起きるんじゃなくて、信じた分だけ続くものなんだって、今なら思えるよ。

また図書館で、隣に座ってもいい?」

僕は笑って、スマホの画面を見つめながら、ただひとことだけ送った。

「もちろん。」

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