その人に初めて会ったのは、梅雨が明けたばかりの蒸し暑い午後だった。私は在宅ワークになってからというもの、外に出ることも人と話すこともめっきり減り、週に何度か届くネット注文の品が、数少ない「人との接点」になっていた。
その日も、玄関のチャイムが鳴った。扇風機の前から渋々立ち上がり、インターホンに出ると、短く「宅配です」と男の人の声が聞こえた。いつものように無表情で荷物を受け取るつもりだったのに、ドアを開けた瞬間、時間が一瞬止まった気がした。
白いポロシャツに深緑のキャップ。汗をかいた額をタオルで拭っていた彼は、私の方を見て、ぱっと明るく笑った。「暑いですね、今日も」と何気ない一言。そんな当たり前の言葉が、どうしてあんなに胸に響いたのか、自分でもわからなかった。
「……はい、ほんとに……」
気の利いた返事もできずに受け取ったダンボールは、いつもよりずっしりと重く感じた。彼が去ったあと、私はしばらく玄関に立ち尽くしていた。これまで気にも留めなかった配達の人に、なぜか心を持っていかれたようだった。
翌週も、再び彼が来た。今度は、少しだけ会話を増やす勇気が出た。
「いつも大変ですよね、こんな暑い中」
「慣れてますよ。むしろ、こうやって少しでもお話できる方が嬉しいです」
その言葉に、心が跳ねた。私だけじゃないのかもしれない。この人も、日々の業務の中で、小さな交流を求めているのかもしれない。そう思った瞬間、何かが変わった。
そこから私は、週に一度だったネット注文を、週に三回に増やした。もちろん必要なものなんてそんなにない。ティッシュや洗剤、ドリップコーヒー……なんでもよかった。ただ、彼と顔を合わせる理由が欲しかったのだ。
三度目の配達のとき、彼が言った。
「いつもありがとうございます。〇〇さん、ですよね」
私の名前を覚えてくれていた。それだけで、胸が熱くなった。
「私こそ、ありがとうございます。すごく丁寧で、助かってます」
たわいもない会話。でも、私にとっては何より特別な時間だった。彼は、荷物を渡した後、ほんの少しだけ、玄関先で立ち話をしてくれるようになった。
「この間のドリップコーヒー、美味しかったですよ」
「え? 同じの買ったんですか?」
「気になって。おすすめなら、信じてみようかと思って」
私は笑った。彼も笑った。まるで友達のような、でもどこか違う、心の奥がほんのり温かくなるやりとりだった。
名前はまだ聞けていなかった。でも、次の配達で聞こう。そう思っていた矢先のことだった。
「実は、来月でこのエリア、担当外れるんです」
その言葉に、心臓がドクンと鳴った。急に世界が色あせて見えた。
「……そうなんですか」
そう答えるのが精一杯だった。彼は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「また、どこかでお会いできるかもしれませんけどね」
可能性を示すような言葉。でも、現実はそんなに甘くない。あれほど毎日楽しみにしていた「配達の時間」が、突然、終わりを告げようとしていた。
――だけど、私はもう、黙って待つだけの自分じゃいられなかった。
彼の最終配達日、私は意を決して、あるものを用意していた。
白地に細かい花柄の紙袋の中には、彼が「美味しかった」と話してくれたドリップコーヒーの詰め合わせと、短い手紙を添えてあった。言葉で伝える勇気がなかった私は、手紙に想いを込めることにした。
——「お話できるのが、いつも楽しみでした。突然の担当変更は寂しいけれど、どうかお元気で。そして、もしよかったら、これからもどこかで繋がっていられたら嬉しいです」——
それを書いたあと、何度も読み返し、封を閉じた。手は汗ばんでいた。こんなに緊張したのは、いつぶりだろう。
そして午後1時すぎ、いつものチャイムが鳴る。
「〇〇さん、こんにちは。今日が最後の配達になります」
インターホン越しの声はいつもより少し柔らかく、どこか寂しげだった。私は玄関を開け、笑顔を作って彼を迎えた。
「こんにちは。……これ、よかったら受け取ってください」
私はそっと紙袋を差し出した。彼は一瞬目を丸くした後、優しく受け取ってくれた。
「えっ……ありがとうございます。なんだか、すごく……嬉しいです」
照れたように笑うその顔を見て、少しだけ安心した。
「いつも話しかけてくれて、私のほうこそ、楽しかったです。仕事中なのにごめんなさいね、毎回いろいろ話しかけちゃって」
「いえ、僕のほうこそ救われてました。〇〇さんが話しかけてくれるの、楽しみだったんです。なんていうか……荷物を届けるっていうより、心が届いてる感じがして」
彼の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
——今だ。今しかない。
「もし、迷惑じゃなければ……配達じゃなくても、これから会えたり、しませんか?」
精一杯の勇気を込めたその言葉は、思ったよりもまっすぐに彼のもとへ届いた。
彼は一瞬驚いた顔をして、それからゆっくりと笑った。
「……はい。僕も、そう言いたかったんです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かがふわっとほどけた。
彼はスマートフォンを取り出し、お互いの連絡先を交換した。指先が少し震えていた。でも、その震えさえも嬉しかった。
「今日の配達が終わったら、連絡してもいいですか?」
「もちろん。待ってます」
彼はバイクにまたがり、いつもと同じように手を振って帰っていった。でも私にはわかっていた。今日という日は、いつもと全然違う。終わりの日なんかじゃない。始まりの日だった。
その夜、彼からメッセージが届いた。
「今日はありがとう。本当に嬉しかったです。週末、もしよければコーヒーご一緒しませんか?」
私はソファに座ったまま、スマホを抱えて笑った。
「ぜひ。楽しみにしてます」
そこから私たちは、少しずつ距離を縮めていった。週末のカフェで話した他愛もないこと、偶然のように重なる好み、気づけば何時間も過ぎていた会話の時間。彼は、配達の人じゃなくて、“私のことを見てくれる人”になっていた。
数ヶ月後のある日、彼がふと私に言った。
「最初、ただの配達先のひとつだったはずなのに、不思議ですね。今では、朝起きてまず〇〇さんの顔が浮かぶんです」
「私も……毎日、チャイムが鳴るのを待ってた頃が懐かしい」
そう言って笑い合ったあと、彼はコーヒーカップを置いて、まっすぐ私を見つめた。
「出会ってくれて、ありがとう」
何気ない言葉だったけれど、それはまっすぐ私の心を打った。
あの日、玄関のドアを開けてよかった。ほんの少しの勇気が、世界を変えることだってある。恋は、いつも思いがけない場所で、そっと始まっている。
——彼の笑顔と、あの日差しのように。