春の風がまだ冷たさを残す四月、私は私立星翔学園の三年生になった。
進学校であるこの学校では、生徒たちのほとんどが大学進学を目指して必死に勉強している。私も例外ではなく、推薦を狙って成績を維持する日々を送っていた。そんなある日、新任の国語教師が赴任してきたという噂が、廊下中を駆け巡った。
「やばい、めっちゃイケメンらしいよ!」
「しかもまだ27歳なんだって!」
私はそんな話に興味も持たず、教室の窓際の席で文庫本を読んでいた。けれど、その人が教室に入ってきた瞬間、世界が一瞬止まったような気がした。
「今日から三年A組の国語を担当します、九条蒼(くじょう・あおい)です。」
彼は静かな口調でそう言いながら、黒板に自分の名前を書く。その姿はどこか儚げで、けれど芯のある強さを感じさせた。目が合った瞬間、なぜだか心臓が強く跳ねた。これが“直感”というものなのだろうか。
最初はただの憧れだったと思う。彼の授業は穏やかで、それでいて奥深い。特に古典文学を語る時の彼の表情には、どこか寂しさと情熱が同居していた。
私はいつしか、授業が終わった後もノートを見返すようになり、彼の言葉をメモに書き留めるようになっていた。
放課後、教室に忘れ物を取りに戻ったときのことだった。職員室から出てきた九条先生と鉢合わせた。
「ああ、君は…桐谷さん、だったかな」
「はい。あの…忘れ物を取りに」
「そうか。…ところで、君の読書感想文、読んだよ。すごく丁寧に書かれていて驚いた」
「…本当ですか?」
褒められたことも嬉しかったけれど、それ以上に、私を覚えてくれていたことに胸が熱くなった。
「文学をただの教科としてじゃなく、ちゃんと感じて読んでる。そういう生徒は、教師としても嬉しいものだよ」
その言葉が、心に刺さった。私はこの人にもっと褒められたい、もっと見てほしい、そんな感情が抑えられなくなっていった。
それから私は、毎回の授業に力を入れた。九条先生の質問に真っ先に手を挙げ、読書感想文も毎週提出した。まわりの友達には「真面目だね」と笑われたけれど、そんなことどうでもよかった。
ある日、先生に呼び止められた。
「桐谷さん、今度の日曜、図書館に行く予定があるんだけど…君が興味を持っている明治文学の資料が手に入るかもしれない。もしよかったら、一緒にどう?」
心が跳ね上がった。一緒に…? 二人きりで?
「はい、行きたいです!」
答える声が震えたのを、自分でも気づいていた。
日曜日の午後、待ち合わせた駅前で、先生は私服姿で現れた。白いシャツにグレーのジャケット。普段より少し砕けた印象に、胸の鼓動が速くなる。
図書館では静かに並んで資料を見ていたけれど、私は文字が頭に入ってこなかった。横顔が気になって、手の動きが気になって、彼のすべてが気になっていた。
「…先生って、なんで教師になったんですか?」
思わず尋ねた。
「昔、僕にも好きな先生がいてね。その人に憧れて、国語教師になったんだ」
「先生にも…好きな人がいたんですね」
「うん。でも、それは一方通行だった。大人と子どもじゃ、越えられない壁があるからね」
その時、先生の声が少しだけ震えていた気がした。
その日、帰り道で駅までの坂道を二人で歩いていたとき、私は自分でも信じられない行動に出た。
「先生、私…先生のことが、好きです」
風が吹いて、髪が舞った。先生は立ち止まり、私の顔を見つめた。目が合ったまま、時間が止まったようだった。
「…それは、困ったな」
そう言った先生の顔は、どこか優しくて、けれどとても遠かった。
それは、困ったな」
先生はそう言いながら、優しく笑った。
けれどその笑みの奥には、戸惑いと悲しみが隠れていた。
私はその表情を見て、すぐに後悔した。いけないことを言ってしまったのだと、頭では理解していた。けれど、心がそれを許さなかった。
「ごめんなさい。でも…どうしても、伝えたかったんです」
そう言うと、先生はしばらく黙って空を見上げた。
「桐谷さん。君の気持ちは…とても純粋で、だからこそ受け取るのがつらい。僕は教師で、君は生徒。どんな理由があっても、その線は越えちゃいけない」
わかってる。そんなこと、わかってる。でも。
「私、卒業したら…大人になります。そしたらまた、言ってもいいですか?」
その言葉に、先生は少し驚いたように目を見開いた。
「……それまで、気持ちを変えずにいられる?」
「はい。変わりません」
先生はふっと笑い、どこか哀しそうにこう答えた。
「じゃあ、君が卒業したらもう一度、聞かせて」
その日から、私は心に誓った。絶対に気持ちを曲げず、まっすぐ進んでみせると。
それからの日々は、静かに過ぎていった。
教室では、私はあくまで生徒として振る舞った。先生もまた、これまでと何ひとつ変わらない態度で接してくれた。それが苦しくて、でもありがたかった。
放課後、誰もいない図書室で出会っても、私たちは互いに目を合わせることなくすれ違った。けれど、ふとした瞬間に交わる視線が、そのすべてを物語っていた。
――私たちは、好き同士なのに、何もできない。
それでも、私にできることはただ一つ。勉強に集中して、早く大人になることだった。
進路は、東京の国立大学の文学部に決めた。先生が卒業した大学でもあった。周囲には何も言わなかったが、それは明らかに先生の影響だった。
そして、三月。卒業式の日。
体育館に響く送辞と答辞の声、泣きじゃくるクラスメートたち。私は少し距離を置いて、静かにその光景を見つめていた。
卒業証書を受け取る時、壇上に立つ九条先生と目が合った。
「桐谷遥」
先生が私の名前を呼ぶその声は、いつもより少しだけ優しくて、私は胸がいっぱいになった。
式が終わったあと、先生の姿を探して校舎を歩いた。
職員室の前、廊下の窓辺、図書室…いない。きっと、私から逃げているのだと思った。私は覚悟を決めて、屋上へと向かった。
そこに、先生はいた。
「……来ると思った」
先生は、柵にもたれて空を見ていた。風が少し冷たく、スーツの裾が揺れている。
「卒業しました。約束、覚えてますか?」
私の言葉に、先生はゆっくりと振り返った。
「覚えてるよ。でも、君の気持ちを確かめるのは…僕のほうだと思ってた」
「どういうことですか?」
先生は私に近づき、まっすぐ目を見つめた。
「僕も…ずっと、君のことを考えてた。毎日、自分を律するのが大変だったよ。教師として越えてはいけない一線、それを守ることで精一杯だった」
私は口元を押さえ、涙をこらえた。
「でも、もう僕は教師じゃない。君は生徒じゃない」
「…じゃあ…」
「桐谷遥。改めて言わせてほしい。――君が好きです」
その瞬間、涙が止まらなくなった。
ずっと我慢してきた。好きなのに触れられなくて、話したくても話せなくて、それでも諦めきれなくて。今日、この言葉を聞くために、ずっとがんばってきたんだ。
私は小さく頷いて、そっと彼の胸に顔を埋めた。
「私も、ずっと好きです。変わってません」
九条先生――いや、蒼さんは私の頭を優しく撫でてくれた。まるで、冬を越えて咲いた春の花を愛おしむように。
それから私たちは、少しずつ“恋人”としての関係を始めた。大学進学とともに一人暮らしを始め、週末にだけ会う。人目を避けていた頃とは違って、堂々と手をつなげることが、こんなにも幸せだと初めて知った。
出会いは禁断だった。でも、決して不純なものではなかった。
私たちはルールを破らなかった。想いを抑え、時間をかけて信じ合い、やっと許された恋だった。
それが、私にとって人生で一番大切な愛の形だ。