「なんで、あいつばっかり…」
会社の休憩室。木村翔太は、紙コップのコーヒーを片手にスマホを睨みつけていた。画面には、社内報の電子版が表示されている。同期の田中が、新規プロジェクトで成果を出し、社長賞を受け取った記事だった。
(また田中かよ。なんで俺じゃないんだ)
翔太と田中は同じ年に入社し、配属も同じ営業部。学歴も年齢も変わらない。なのに田中ばかりが目立つ。上司の受けもいい。どんな場面でもスマートに振る舞える田中に対して、翔太はどこか不器用だった。真面目に働いていても、それをうまくアピールできず、評価に繋がらないことが多かった。
「おめでとう、田中!」
同僚たちの明るい声が、休憩室の外から響く。翔太は紙コップをぎゅっと握った。微かにコーヒーがこぼれ、手に染みた。祝福の声が、まるで自分への嘲笑のように聞こえた。
田中に彼女ができたと聞いたのは、半年前だった。彼女の名は、美月。総務部に所属し、社内でも評判の美人だった。
翔太は彼女の存在を知った時、動揺した。顔に出さず、「へぇー、すごいじゃん」と軽く返したが、内心はざわついた。
(なんで田中なんだよ。俺の方が、彼女とうまくやれる)
翔太はそう思い込むようになった。美月が社内を歩けば、目で追い、挨拶されれば過剰に笑顔を返した。些細な接点すら「好意の証」だと錯覚し始めた。
ある日、翔太は偶然を装い、美月の昼休みに声をかけた。
「美月さんって、映画好きなんですね。インスタ、見ました」
「え?…あ、はい。趣味で」
笑顔を見せる彼女に、翔太は確信を持った。
(やっぱり俺に気がある)
だが、実際にはただの社交辞令だった。彼女は田中と真剣に付き合っていたし、翔太のことは“感じのいい同僚”程度にしか見ていなかった。
翔太は次第に、美月のSNSをくまなくチェックするようになった。過去の投稿まで遡り、田中との写真があれば無意識にスクショ。田中のどこがそんなにいいのか、本気で理解できなかった。
「田中って、浮気癖あるらしいよ」
ある日、翔太は噂話のように、同僚の耳元で囁いた。もちろん、根も葉もない作り話だった。だがそれは翔太にとって、“真実”と信じたかった希望だった。
「そんなことないと思うけどなあ…」
軽く流されたが、翔太は気にせず続けた。
「美月さん、あんなに真面目そうなのに、かわいそうだよな」
同僚は困ったように笑い、話題を変えた。
翔太の中で、田中への嫉妬がゆっくりと、確実に“敵意”へと変わっていった。
そんなある日、美月が休憩中に翔太に声をかけた。
「木村さんって、本当はすごく優しいですよね」
ただの雑談の一環だった。けれど、その一言が翔太には爆弾のように響いた。
(やっぱり、俺のことを見てくれてる)
その夜、翔太は眠れなかった。頭の中で美月との未来を描き、そしてそこに田中の姿が入り込むたびに、心が軋んだ。
(あいつさえいなければ…)
翌日から、翔太は田中のデスク周りを意識的に観察し始めた。出入りのタイミング、外出の頻度、机に置かれたUSBや資料——やがて翔太は、田中の私物に手を出した。
社用PCに保存されたデータに不正にアクセスしようとしたところ、セキュリティが作動。田中はIT部門に相談し、ログから不審な操作履歴を発見した。
「なんか、誰かが中を覗いた形跡があるんだよ」
翔太はその場にいたが、驚いたふりをして答えた。
「怖いね。誰か他に狙われてるのかもよ?」
田中は翔太を疑っていなかった。ただ、それが翔太には逆に痛かった。
(なんで、信じてんだよ…俺がこんなに憎んでるのに)
田中と美月が婚約したというニュースは、ある朝の社内報で知った。
「お幸せに!」
「いやー、お似合いすぎるって!」
祝福ムードの中、翔太は沈黙していた。心の奥が焼け爛れるようだった。誰も気づかぬようにトイレに逃げ込み、こっそり涙を流した。
(ふざけるな…)
その夜、翔太は酒を煽り、PCを開いた。匿名のアカウントを作成し、田中と美月に関するデマをネットに書き込んだ。二人の顔写真、職場情報、通勤経路。全て“知っている人間”にしか書けない内容だった。
「田中は前の職場で暴行事件を起こした」
「美月は二股して、前の彼氏を自殺に追い込んだ」
SNSはざわついたが、すぐにデマとバレた。書き込みは通報され、翔太の行為は会社に伝わった。
警察が自宅に訪れたのは、数日後の朝だった。
「木村翔太さんですね。名誉毀損と個人情報漏洩の疑いで、事情をお伺いしたい」
事情聴取を受けた翔太は、最初は否認したものの、ログと証拠を突きつけられ、黙り込んだ。結局、起訴はされなかったものの、会社は翔太を懲戒解雇とした。
田中は、翔太に一切怒らなかった。むしろ、翔太の退職日にそっと声をかけてきた。
「…俺たち、友達だったと思ってたよ」
翔太は、何も言えなかった。ただ頭を下げ、会社を去った。
それから三年が過ぎた。
翔太は今、都内のボロアパートで一人暮らしをしている。履歴書に書ける職歴はない。ネットカフェで過ごす日も増え、SNSも閉じた。もう誰にも嫉妬する資格すら、自分にはない。
あの日の言葉が、今でも頭にこびりついている。
(俺たち、友達だったと思ってたよ)
翔太は今日も、狭い部屋の天井を見つめながら、自分が「嫉妬」という感情にすべてを壊されたことを、静かに悔やんでいる。