奪う快感、失う恐怖

恋愛

大学時代から、美咲(みさき)は“略奪愛の天才”と呼ばれていた。

 外見がずば抜けて美しいわけではない。けれど、男心をくすぐるのが上手かった。タイミングを見極める勘が鋭く、「人のもの」にだけ燃える業火のような恋心を持っていた。

「ねえ、彼女いるの?」

「うん、まあ……一年くらい付き合ってる子がいる」

「ふーん、でも、今楽しそうなのは私と話してるときじゃない?」

 こんなふうに、軽く目を潤ませながら甘えた声で言えば、男たちは皆、美咲に引き寄せられていった。

 ただの浮気ではない。美咲が狙うのは「本命の恋人を切らせて、自分を選ばせる」ことだった。

 その快感が癖になっていた。彼女持ちの男を振り向かせるたびに、自分の存在価値を証明できる気がした。奪った後に飽きることも多かったが、関係が壊れるまで自分からは別れなかった。

「どうせ、彼女より私のほうが幸せにできるし」

 そう正当化していた。

 だが、二十代後半、美咲の“狩り”の成功率が下がり始めた。

 ある日、職場で出会った新入社員の祐真(ゆうま)に惹かれた。穏やかな目をした青年で、彼女とのツーショットをスマホの待ち受けにしていた。

 美咲は血が騒いだ。

 彼には同棲中の恋人がいた。中学の同級生で、十年以上の付き合いらしい。

 「これは、燃える」と思った。

 美咲は祐真にさりげなく近づいた。ランチに誘い、仕事を手伝い、彼の好きな映画を話題にした。

「彼女さん、嫉妬しない?」

「うーん、ちょっと焼きもち妬きだけど、信頼してくれてるからね」

「ふーん、いいなぁ。そんなふうに信じ合える関係、羨ましい」

 いつもの手口だった。少しずつ距離を詰め、無意識に恋心を芽生えさせる。美咲は自分に自信があった。

 だが、祐真はなかなか落ちなかった。食事を重ねても、仕事終わりに相談に乗っても、彼は一線を越えてこない。

 焦れた美咲は、ついに勝負に出た。

 酔ったふりをして、祐真の腕に絡み、耳元で囁いた。

「もし、私が“好き”って言ったら……困る?」

 祐真は静かに笑った。

「うん、困る。君は魅力的だけど、俺、彼女と一緒に未来を作ってるから。ごめんね」

 その日、美咲は一人でタクシーに乗って泣いた。

 奪えなかったことが悔しかった。勝ち続けてきたゲームで、初めて完敗した気分だった。

 だが、それでも止められなかった。

 次に狙ったのは、結婚間近の婚約者がいる男だった。式場も決まっていた。彼とは二ヶ月ほど不倫関係になったが、結局、彼は婚約者のもとに戻った。

「彼女を傷つけたくない」と言い残して。

 その頃から、美咲は“噂”の的になっていた。

「また奪おうとしてるらしいよ」

「男を誘惑するために近づいてくるって有名」

 仕事場でも視線が冷たくなった。仲の良かった同期に距離を置かれ、上司からも「もう少し節度を持って」と暗に釘を刺された。

 三十歳になったとき、美咲はふと気づいた。

 周囲の友人たちは、穏やかな家庭を築いていた。子どもを育て、パートナーと笑い合い、誰かの“唯一”として日々を生きていた。

 一方、美咲のそばには誰もいなかった。

 かつて略奪して手に入れた男たちは、すぐに去っていった。彼女は“奪われる痛み”を知っていたから、誰も深く愛せなかった。

 そんなとき、一本のLINEが届いた。

「久しぶり。元気?」

 名前を見て、胸がざわついた。

 ——祐真、だった。

 どうやら彼女と別れたらしい。十年以上の関係が、結局すれ違いで終わったのだという。

 美咲は歓喜した。ようやく、神様が自分に微笑んだのだと。

 二人は再会し、食事をした。あの日と同じように、美咲は耳元で囁いた。

「今なら……困らない?」

 祐真は少しの沈黙のあと、頷いた。

「……うん、今なら」

 その夜、美咲は彼と一つになった。

 だが、それは“始まり”ではなかった。

 次の日から、祐真はそっけなくなった。LINEの返信も遅く、会う約束も曖昧だった。

 数週間後、美咲はSNSで彼の投稿を見つけた。

 そこには、笑顔の女性と手を繋ぐ祐真の姿。

 コメントには「付き合って三ヶ月、これからもよろしくね」とあった。

 つまり、祐真は“すでに”別の恋人がいたのだ。

 美咲は一瞬、目の前が真っ暗になった。

 ——自分が、奪われた。

 それも、「都合のいい女」として一夜限りの存在にされたのだ。

 泣きながら電話をかけたが、祐真はこう言った。

「……あのときの仕返し、ってわけじゃないよ。でも君、俺のこと“ゲーム”みたいに扱ってたよね? 俺、ああいうの無理なんだ。幸せになってほしいけど、俺とは無理だと思う」

 電話が切れた後、美咲は部屋で一人、しばらく立ち尽くした。

 奪ってきた分、失ってきた。

 誰かのものになる瞬間にしか燃えられず、自分のものになった途端に心が冷めてしまう自分。

 だが、今度は逆だった。

 本気で欲しいと思った人に、本気で裏切られた。

 それから美咲は、誰にも心を開けなくなった。恋人のいる男に近づいても、あの夜の祐真の顔が浮かんだ。奪えば、また失うのだという恐怖が先に立った。

 愛することが怖い。

 でも、もう誰も愛してくれない。

 それが、“奪うことしか知らなかった女”の末路だった。

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