佐藤祐介(さとうゆうすけ)、32歳。
都内の広告代理店に勤める彼は、周囲から「できる男」と呼ばれていた。
学生時代から、彼は常に「一番」を目指してきた。
「頑張れば、報われる」
そう信じて疑わなかった。
大学では経済学を専攻し、成績は常にトップクラス。
就職活動でも名だたる企業から内定をもらったが、「一番忙しくて、一番成長できそうな場所」を選んだ。
入社一年目、彼は猛スピードで仕事を覚えた。
先輩の倍の案件を抱え、休みの日も自己研鑽に励んだ。
努力は実を結び、同期の中で最速の昇進を果たした。
だが、その裏で、何かが少しずつ削れていった。
体力。心。人間関係。
気づかないふりをして、彼は走り続けた。
「もっと上を目指さなきゃ」
「ここで立ち止まったら、負けだ」
周囲が残業を減らし始めても、祐介はひとり深夜までオフィスに残った。
気づけば、休日も仕事のことを考えていた。
スマホの通知音が鳴るたび、心臓が跳ね上がるようになっていた。
胃の痛みが日常になり、寝つきが悪くなり、朝起きると吐き気がした。
それでも祐介は薬を飲みながら、職場に向かった。
2024年3月。
大型プロジェクトのリーダーに抜擢された。
会社にとっても、彼自身にとっても、絶対に成功させなければならない案件だった。
プレッシャーは凄まじかった。
クライアントからの無理な要望、社内からの期待、後輩たちの視線。
一瞬たりとも気を抜けなかった。
祐介はすべてを自分で抱え込んだ。
「俺がやらなきゃ、誰がやる」
だが、限界は突然訪れた。
ある朝。
目が覚めても、体が動かなかった。
手足は鉛のように重く、頭は真っ白だった。
心だけが、「早く出社しろ」と叫んでいた。
電話をかける手も震えた。
震える声で、上司に言った。「……すみません、今日、休みます」
それを最後に、祐介は職場に戻れなかった。
精神科で診断されたのは、「中度のうつ病」だった。
医師は静かに言った。
「今は、とにかく休みましょう」
祐介は何度もうなずきながら、心の中では否定していた。
「俺は怠けてるだけだ」「本当は甘えてるだけなんだ」
家に閉じこもる生活が始まった。
朝も夜も区別がつかなくなり、食事の味もわからなくなった。
スマホには、同期や後輩たちからメッセージが届いた。
「大丈夫?」「また一緒に働こうね」
だが、返事をする気力が湧かなかった。
彼らの言葉は、励ましではなく、遠い世界の言葉に聞こえた。
「もう、俺には戻る場所なんてない」
自己否定は止まらなかった。
過去の栄光が、今はただの重荷にしか感じられなかった。
半年後。
会社から、正式に「自己都合退職」の連絡が届いた。
冷たい事務的な書類が、ポストに届いていた。
そこには、「今後のご健闘をお祈り申し上げます」という定型文が印刷されていた。
祐介は、笑った。
あまりに空々しくて、笑うしかなかった。
あれだけ身を削って、尽くしてきた場所だったのに。
最後は、ただの書類一枚で切り捨てられるのか。
「俺は……何のために生きてきたんだろう」
誰に問いかけるでもなく、祐介はつぶやいた。
答えはどこにもなかった。
その夜。
祐介は、ふらふらとマンションの屋上へ向かった。
夜風が肌を刺した。
下を見下ろすと、車のライトが遠い流星のように流れていた。
一歩踏み出せば、すべて終わる。
怖くなかった。
むしろ、ほっとしていた。
「もう、頑張らなくていいんだ」
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
母からの短いメッセージだった。
「祐介、今日カレー作ったよ。また食べにおいでね」
カレー。
小さい頃、熱を出したとき、運動会で負けたとき、母が必ず作ってくれたカレー。
涙があふれた。
こんな自分でも、待ってくれている人がいる。
生きているだけで、誰かにとっては意味があるのかもしれない。
祐介は屋上に崩れ落ちた。
嗚咽が止まらなかった。
そして、ゆっくりと、立ち上がった。
「生きよう」
ただ、それだけを思った。
それから、祐介は少しずつ外に出るようになった。
最初は、近所のコンビニまで歩くだけで精一杯だった。
次は、図書館へ。
誰とも話さず、ただ静かに本を読む時間が、祐介にとって救いだった。
ある日、図書館の棚で、一冊の本に目が留まった。
『自分を責めない生き方』
そこには、こう書かれていた。
「あなたは、あなたでいるだけで十分だ。」
祐介は、ゆっくり本を閉じた。
心の中に、小さな火が灯った気がした。
完璧じゃなくていい。
立派じゃなくていい。
ただ、今日を生きるだけでいいんだ。
2025年、春。
祐介は、小さなカフェでアルバイトを始めた。
最初は緊張で手が震えた。
注文を取る声も、か細かった。
だが、店のオーナーはにっこり笑って言った。
「失敗したっていいんだよ。ここは、頑張りすぎない場所だからね」
その言葉に、祐介は救われた。
常連のお客さんと、何気ない会話を交わすようになった。
「今日、暖かいですね」
「このコーヒー、おいしいですね」
それだけで、心が満たされた。
夜、仕事を終えたあと、カウンターで一人コーヒーを飲みながら、祐介はふと思った。
「ああ、俺、生きてる」
それで十分だった。
かつて手に入れた肩書きや評価よりも、今ここにいることのほうが、ずっと尊かった。
人は、壊れるまで走り続けなくていい。
できないときは、立ち止まってもいい。
助けを求めても、泣いても、みっともなくても、
それでも生きていていい。
祐介は、静かにコーヒーに口をつけた。
新しい人生は、まだ始まったばかりだった。